こんにちは、ぴんちょすです。
今回は「とびこめ!ぬまづ城」ということで今の沼津駅南口エリアにかつて存在した「沼津城」と、その前身の「三枚橋城」や沼津城の後にできた「沼津兵学校」について、簡単に調べてみました。
とびこめ!ぬまづ城
…というフレーズ、ラブライブ!サンシャイン!!ファンの方ならもしかしたら聴いたことがあるかも。
Aqours 4thシングル「未体験HORIZON」のドラマパートのタイトルになっているフレーズです。
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このドラマパートに実在の沼津城が出てくるかどうかはさておいて(気になる人はCD買って聴いてみてね!)僕も沼津にあったお城のこと、ちゃんと調べてみたい、と思いました。
どこにあったの?沼津城
沼津城の中心部、本丸の跡があるのが沼津駅南口から歩いて5分程度の「沼津中央公園」。
こちらにはかつて本丸があったことを今に伝える石碑や、沼津城について解説したボードが建っています。
また、中央公園からすぐ近くのホテル「沼津リバーサイドホテル」には、沼津城の前身となる三枚橋城の石垣を復元したものが残っています。
また、新仲見世商店街には沼津城の敷地と現在の地図を重ねて、どこにあったか比較できる看板も立っています。実際に見比べてみると新しい発見があって面白いかもです。
沼津城の前身「三枚橋城」
三枚橋城は、「北条氏政書状」によると天正7年(1579)、武田勝頼が後北条氏に対抗して築城したとされています。
沼津観光ポータルサイトより
この三枚橋城と狩野川を挟んで対峙したのが、北条氏の戸倉城(清水町徳倉)で、武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。
沼津市公式サイトより
この土地に武田勝頼(武田信玄の息子ですね)が三枚橋城を築いたのが1579年のこと。後北条氏の拠点だった戸倉城に対抗したもののようです。
時代的にはいわゆる戦国時代、織田信長が天下統一に向けて進んでいた頃ですね。織田信長が武田氏を滅ぼした年、そして本能寺の変が起こったのが3年後の1582年です。
天正10年(1582年)に武田勝頼・信勝父子が天目山で自害し武田氏が滅亡すると、同城は徳川氏に明け渡され、家康の子、松平忠吉とその後見役の松井忠次(松平康親)が入城した。
以後、豊臣方の中村一栄が城主となったが、慶長6年(1601年)には徳川家康の家臣大久保忠佐が城主となり、2万石を与えられた。しかし、忠佐死後、後継者がないことを理由に慶長19年(1614年)には廃城となった。
沼津市公式サイトより
1582年に織田信長によって武田氏が滅亡してからは最終的に徳川家臣の「大久保忠佐(おおくぼ ただすけ)」という人が城主になります。忠佐が城主になった1601年は関ヶ原の戦いがあった1600年の翌年ですね。
ですが、忠佐が亡くなったあとには後継者がいなかったため三枚橋城は廃城。ということです。
三枚橋城についてざっくりまとめると、
- 三枚橋城があったのは戦国時代のこと
- 武田勝頼が北条氏に対抗して築城(1579年)
- 武田氏滅亡後は徳川→豊臣→徳川
- 関ヶ原の戦いのあと徳川家臣 大久保忠佐が城主に(1601年)
- 忠佐が亡くなった後は廃城に(1614年)
ということです!
いよいよ「沼津城」の登場
大久保忠佐亡き後に廃城になった三枚橋城。その後約160年もの間、ここには城がなかったそうです。
三枚橋城廃城後の沼津は、代官支配となったが、安永6年(1777年)水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、ここに沼津水野藩が誕生する。
沼津市公式サイトより
沼津は城下町として発展し、城の南北は現在の静岡銀行沼津支店から沼津駅の手前までで、大手門は静岡銀行の西むかい側に造られ、本丸は中央公園辺りにありました。
沼津観光ポータルサイトより
1777年、水野忠友(みずの ただとも)がかつて三枚橋城があった沼津に領地を与えられて沼津城を築城します。
時代的には江戸時代後期。田沼意次による江戸幕府の財政改革、なんて歴史の授業で習ったっけ。その田沼意次が幕府の老中だったのがこのころです。
世界史的にはアメリカ独立宣言が出されたのが沼津城築城の前の年、1776年です。
歴代藩主は忠友・忠成(ただあきら)・忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)・忠敬(ただのり)と続きますが、忠敬の時明治に至り、徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は菊間(市原市)に移り、城は沼津兵学校の校舎に使用されました。
沼津観光ポータルサイトより
その後、沼津は城下町として栄えたそうですが、約90年後に江戸幕府は終わりを迎えます。1867年に江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜が大政奉還。
沼津城を離れた水野氏はいまの千葉県市原市、菊間藩に移ったようです。
ざっくりまとめると、
- 沼津城があったのは江戸時代後期
- 三枚橋城廃城から約160年後、水野忠友が沼津城を築城(1777年)
- 沼津は城下町として栄える
- 江戸幕府の終わりまで約90年(大政奉還が1867年)
- 水野氏は沼津城を離れ菊間藩へ
こんな感じです!
その後 沼津兵学校として
明治時代となり、徳川家の駿府70万石への移封が決定されると、江戸幕府が残した膨大な書跡・器械や優れた人材の活用を図るため、旧幕臣の江原素六らによって兵学校設立の準備が開始されました。
明治元年、現在の大手町にあった沼津藩水野家の御殿(沼津城二の丸)を利用して、最新式の学問と技術を備えた士官養成機関として徳川家兵学校が開校されました。
沼津市観光ポータルサイトより
明治時代を迎え、沼津城主であった水野氏の御殿を利用して徳川家の兵学校が開校されます。
その水準は当時の最高をいくもので、全国から優秀な人材が沼津に集まりました。明治3年に兵部省の管轄下に置かれ、明治5年5月には東京に移されて廃校になってしまいました
沼津市公式サイトより
わずか5年足らずで東京の士官学校と統合され閉校となってしまいますが、沼津兵学校には全国から優秀な人材が集まったようです。
今では火事や空襲によってかつての遺構はほぼ無くなってしまったようですが、かつて沼津にあったお城に想いを馳せてみるのも楽しいものかと。
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